« 【銀座探訪】丼モノの穴 ~ らん月 酒の穴 | トップページ | 【銀座探訪】夏おでん。夏カレー。 ~ 銀座よしひろ »

続・テーマパークの演劇的考察 ~ NAMCO ワンダーエッグ篇

「テーマパークの演劇的考察」の続編、「NAMCO ワンダーエッグ」の巻です。
残念ながら画像はありません。

前回は東京ディズニーシーについていろいろと書き散らしましたが、元々筋金入りのゲーマーだった私にとっては、こちらの方がとても馴染み深く、何度も通った経験があります。
ここは「日本初の都市型テーマパーク」とされていますが、いわゆる普通の遊園地とは決定的に違う点があります。それは、「ゲームセンターの延長線上のテーマパーク」である、ということです。

各種アトラクションは、単なる乗り物というものはほとんどありません。全体の8割は必ず何かしらの「ゲーム性」を伴っており、そこには対人間/対コンピュータを問わず、何らかの「勝負」が発生しています。「ゲーム性が伴う」ということについて言える事は、ある特定のジャンルのゲームメディアにおいては必ず何らかの「ロールプレイ」が伴う、ということでもあります。アドベンチャー/ロールプレイングゲームであれば言うまでもなく主人公あるいは登場人物のロールプレイであり、またシューティングゲームであれば戦闘機を操る主人公であり、さらにシミュレーションであればその軍の司令官であります。
そして「NAMCOワンダーエッグ」には、そのゲーム性に伴って発生するロールプレイを「演劇的に」活用した大規模アトラクションがいくつか存在しました。それが前回の最後に述べた「観客にロールプレイを強制するアトラクション」であります。

代表的なアトラクションとして「ギャラクシアン3」(リンク先はプレステバージョン)があります。
これは28人乗りの「ドラグーン」という重戦闘機に乗り込み、地球を侵略する敵「UIMS(ウイムズ)侵略機械集団」と戦うという、ゲーム史上他に例を見ない「多人数大型シューティングゲーム」であります。この「28人乗り」であるということが非常に大きなポイントで、つまり、作戦に失敗したときは「28人ごと」ゲームオーバーになるという訳です。
ゲーム的には単純に28人が一気にドラグーンのガンナーシートに乗り込んですぐにゲームスタートすればいいのですが、ここはそう行かずにまずはちゃんと「緊急機密司令N-875302」に関する「ブリーフィング」から入ります。そこで現在の戦略情勢と戦闘状況、作戦と破壊目標「キャノン・シード」についてや、ドラグーン及びガンナーシートなどの各種説明が、しっかり「軍隊調」で実施され、そのブリーフィングが終了すると士官の命令で乗り込み口に整列させられます。そしてエアロックが開くと、ここが非常に重要なのですがドラグーンの女性パイロット2名が敬礼して直立不動で立っており、「これより作戦行動に入ります。作戦行動中は必ず我々の指示に従ってください。」と非常に厳しい(というかキッツイ)口調で命令します。このとき観客はたいていその迫力に多少ビビリながら黙々と戦闘シートにつく事になり、あとは戦闘開始というわけです。

いやー素晴らしい(笑)。

「ギャラクシアン3」は、上記に示す通り、観客とアトラクションの間に境界がなく、観客は完全にその世界の内部に立たされているという構図が完全に作りこまれています。非常に凝ったSF性の強い舞台美術や、「ドラグーン」が整備されている音響などのサウンドスケープ、そしてアトラクション開始と同時にしっかり役に入っているキャストたちの軍隊調の緊張した言葉遣いや立ち振る舞いなどの様々な演出技術が、生き生きとその世界が進行していく様子を観客たちに強く働きかけていきます。
観客たちがやるべきことは、1.ブリーフィングを受ける。2.ガンナーシートにつく。3.戦闘を行い目標を撃破する、とフツーのゲームセンターのゲームと何ら変わらないことなのですが、それらはアトラクション全体の強い働きかけによって「ギャラクシアン3世界」の進行の中に組み込まれているため、観客は知らず知らずのうちに「ドラグーンのガンナー」というロールを与えられ、それを愚直に遂行しようとしてしまいます。つまり「完成されたシチュエーション」と「ゲーム自体の目的」によって強制的にロールプレイさせられてしまうわけです。
そして極めつけはやはり2名の女性パイロットです。もちろん、ドラグーンといっても単なるバカでかいゲーム筐体であるため、パイロットなんて全然必要ないのですが「共に乗り込んで戦う」というその行為、つまり、ドラグーン上で同じ目的を遂行する「共演者」の存在が、単なる大型ゲーム筐体を「ドラグーン」として存在させ、観客のロールプレイを決定的にします。そのため、彼女らが発する「命令」が生きた力を持って観客たちを「黙々と乗り込ませて」しまうのです。
こうして、ゲームスタートまでのわずか5分間の間に「ギャラクシアン3」という生きた演劇空間が完成し、ゲームそのもの自体を「本当に存在するような世界」として成立させる訳です。

演劇とは基本的に舞台および出演者と観客という構成で成り立つため、「観客そのものも出演者」あるいは「舞台と客席との境界をなくす」などのような構図は、私が知る限りでは日本の長い演劇の歴史ではほとんど存在せず、近年の現代演劇から登場したと思われます。前回述べた寺山修司作品などもそうですが、もっと過激な例では、観客を「移動する檻」の中に閉じ込め、出演者がそれを取り囲みながら舞台を進行させ、観客を作品の中に取り込んでしまうという作品がありました。(OM-2による「ノクターナル・アーキテクチャー」です。残念ながら未見。)
「観客自体も作品世界に取り込んでしまったら、いったい誰が観客なのか?」という点において、それは果たして演劇と言えるのかどうか、という議論が成り立ちます。観るものがいない舞台。舞台と客席や観客との融合を考えた場合、必ずそういった命題に出会うことになりますが、日本の現代演劇はその命題に対しての問いかけや考察が数多く行われている時代でもあるかと思います。
コンピュータゲームの一部は必ずロールプレイを伴うと先に述べましたが、もちろんモニターに向かってジョイスティクを握るだけでは演劇とは言えず「単なるゲーム」に過ぎません。「ギャラクシアン3」はそこに舞台と観客を融合させた「生の演劇性」を取り入れ、単なるゲームをより「リアルな実体験」に昇華させています。そういったことから、ワンダーエッグにおける「演劇性を取り入れたゲームアトラクション」は、製作者の意図に関わらず、現代演劇の命題に対する問いかけの一手法として捉えられることができると私は考えます。

そしてそのことは、さらに未来のこれまで誰も観たことがない全く新しいメディアへのヒントにもなるのですが、それについてはまた次回、まとめたいと思います。

というわけで、半端な知識だけで書き散らしているこのシリーズ、まだ続きます。

|

演劇」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/39945/1068426

この記事へのトラックバック一覧です: 続・テーマパークの演劇的考察 ~ NAMCO ワンダーエッグ篇:

コメント

コメントを書く